旧洞爺村立洞爺小学校校歌

 
洞爺村立洞爺小学校校歌(現在は廃止)
作詞の安住誠悦氏は洞爺村出身で北大法文学部国文科第一期卒後、北海道教育大学岩見沢校助教授。
明治浪漫主義文学の研究者であり、北海道教育大学岩見沢校校歌や
札幌市立柏丘中学校校歌なども
作詞されており、スケールが大きくて格調も高く、それぞれに良い歌詞だと思います。
同様にこの旧洞爺小学校校歌も、おおらかでのびのびとしたイメージに、清清しさと力強さが加わった、
はつらつ感の溢れる小学校の校歌らしい素敵な歌詞だと思います。この歌を歌うとき「希望の鐘の音鳴〜り
わたる」の部分では、私の胸の中では、確かに高らかに鐘が鳴っていたのを記憶しています。

光あふれる 湖畔のみどり ・・・ 洞爺が完全なる「陽」の地であり、祝福された地であることを示しているのだ。
※南に水面、北に山を負う地を陽、その逆を陰とし、両方の陽を備えたものを完全なる陽=「咸陽」と
言うが、
 それに従えは、洞爺村の地は完全なる陽であり、「咸陽」の地なのである。
 冒頭「光あふれる 湖畔のみどり」の歌詞は美しく咸陽を寿ぎ、これ以上は無く完璧であると、私は思うのだ。
 
とうや小学校の歌詞も記載してみました。残念ながら歌詞だけで、メロディーは分かっておりません。
この歌詞は、どの様に思われるでしょうか?感じるでしょうか?
私は歌詞を一読し、多いに違和感を覚えました。

「すごそうよ」という言葉が一番から三番まで全てに書かれていますが、これはいかがなものでしょう?
言葉に関してはド素人の私ですが、この「すごす」という言葉に良いイメージを持つことが出来ません。
「無難に過ごす」、「遣り過ごす」、「見過ごす」、「寝過ごす」、「無為に過ごす」、「空しく過ごす」、「酒を
過ごす」といった、あまりイメージの良くない言葉が次々と頭に浮かんでしまい、良いイメージの言葉
が思い浮かびません。あまり良い使われ方をする言葉では無いのではないか?と思いますが、私の
思い過ごしでしょうか。

さらに「さざ波立てて」という言葉もいかがでしょう?湖にさざなみは付き物の様にも思いますが、「さざ
波をたてる」にしても「さざ波がたつ」にしても、心の動揺や諍いをイメージしてしまい、小学生の校歌に
は適切な言葉では無いのではないかと思うのですが・・・、違っているでしょうか?
そもそも、私は湖畔で生まれて毎日洞爺湖の湖面を見て育ちました。洞爺湖に吹く風は常に感じて
いましたが、「さざなみ」を改めて感じたことはありません。「ドナウ川のさざなみ」を念頭に置いたのか
もしれませんが、単なる言葉遊びでしかないと感じます。

比べてみれば、一目瞭然ですね。
内容が薄いというのか軽いというのか・・・、力強さもないし安っぽい。そう感じるのは私だけでしょうか?
だから、何?という感じ。それとも、これが時代というものなのでしょうか。
全体に洞爺小学校の校歌を踏襲しようとしている様にも感じますが、全体にしまりの無い歌詞であり、
言葉の羅列にしか思えず、空虚に感じてしまい、劣化版としか思えず、残念です。

それともうひとつ、洞爺小学校のところは「とーやしょうがっこう」と歌っていました。新しい校歌では、
とうやの子としています。あえて「とうや」と歌わせることにも違和感があります。先人から受け継いだ
この地は「湖の岸」を意味する「トーヤ」であったはずです。
「洞爺」であれば、「トーヤ」と発音するのに何の支障もありませんが、「とうや」と書かれてしまうと、
これはもう、「とうや」と発音するしかありません。
こども達が「とうや」と発音させられているのかと思うと、歴史を殺されてしまうのかと思うと、悲しくて
胸が塞がります。

新しい校歌を記載するつもりは無かったのですが、つい。「小さいことが気になる性質なものですから」
 
旧洞爺村立洞爺中学校校歌
 
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